【連載エッセイ】一滴目の音 Vol.4

 「緑の回廊を行く 


 桜はすっかり花を青葉へと装い替え、山もつられて目覚めのあくびをするかのように生き生きとした若葉を纏った。

 新緑の候。芽吹きが始まり彩度の異なる緑が折り重なり合う5月の上旬、日ごとに山を駆け上っていく淡緑を追いかけて、三峰山を歩いた。



 三峰山は、みなかみ町と沼田市の境に位置している。名前を聞いてピンとこない人でも、みなかみ町に来たことがあれば意識せずとも必ず目にしたことはあるはず。月夜野の東側に座している、屏風を広げているような、長いテーブルのような、稜線がなだらかで不思議な形をしたあの山だ。

 三峰山の山行は、そのなだらかな稜線をひたすら歩く。麓から見えているままで起伏がとても穏やか。なので、急峻な道を体力を総動員して登り、映像や写真では全く映りきらない絶景を眺めにいくような登山というよりは、穏やかな森の中をゆったり歩き、ほどよく運動しつつ自然の空気にたっぷり浸ってリフレッシュする森歩きに近いのかもしれない。谷川岳や武尊山、日光白根山等の利根沼田に座す名峰の数々を登る時とはそもそも目的が異なり、また一味違った登山の魅力を堪能できる。

 登山口はいくつかあるが、僕はいつも沼田市側にある山並みの尻尾に位置する登山口から登っている。舗装された坂道を登り、途中からごろっとした岩が転がっている道に切り替わると程なくして中腹にある河内神社にたどり着く。このルートも頭上には芽吹いたばかりの葉が躍っていた。河内神社にたどり着けば、視界がブワッと開けて河岸段丘が特徴的な沼田市の美しい眺めが飛び込んできた。登山開始20分程度で登山の楽しみ方がぎゅっと凝縮している道のりで、ここだけでも十分に軽登山を堪能した気分になれる。

 日当たりのいい神社の境内で休憩がてら街並みを眺めていると、人里が眼下に広がっているからなのか、自然の中に入っているようでもどことなく人界の一端にいるような感じがして、まだ安全圏にいるような気になる。

 しかし、河内神社の脇を抜け登山道を再び登り始めると、ものの数分で深々たる森の中に飲み込まれていく。神社を境に人の領域は終わり、凛とした気に満ち満ちた自然の領域に足を踏み入れるのである。


 三峰山への登山道は、稜線なのに視界は木々に遮られて尾根道らしい山から下界を望む風景は見られない。代わりに様々な樹種の木が賑わい空間を閉ざしていて、なんだか異世界にでも迷い込んだような雰囲気が味わえる。その空気感は「鬱蒼とした」という重苦しい気配があまりなく、他の森に比べてみてなんとなく明るい印象を受ける。

 そして、季節は新緑。葉になりたての鮮やかな芽が風に揺れ、微かな囁き声を鳴らす。その隙間から昇って間もない朝の日差しが差し込んで、まだ草が生えていない木々の根元を照らす。静寂の中、些細な音でも色鮮やかに聞こえてくるためか、淡い緑の光に包まれる風景の中に、あるはずもない美しい音楽が聞こえてくるような、そんな錯覚を覚える。

 森を歩いて進んでいくと、錯覚ではなく本物の歌声も飛び交っている。もちろん人間ではなく、数多の鳥たちの囀りだ。

 上空にある楢の梢から聞こえてくれば、その声への返答が緑の景色に紅い彩りを添えているヤマツツジの茂みの中から飛んできた。手前に聳り立つ随分と太くて高い松の巨木の上で甲高い声をあげている鳥がいてそちらに意識をむけると、先ほど通り過ぎた遅咲きの桜の向こうからガラガラのダミ声が不意に飛んできて、対比に笑ってしまい思わず振り向いた。声の主を見つけられずキョロキョロ探してみると、突如東側の斜面の下からゲップのような不可解な鳴き声が聞こえてきて、今度はそっちが気になってしまう。音に反応していると、なんだか大忙しだ。春の森は一見穏やかで静かそうに見えて、その実は静けさを下地にしつつも様々な音が飛び交っているんだなと気付かされた。

 さらには、数時間の山行で2、3回程度、気づくか気づかないかの瀬戸際ぐらいではあったが、自然が奏でるざわめきやそれらを包み込む静謐の隙間を縫って、時たま自動車が走り抜けた時の低い振動音がうっすらと響いてくることがある。自然界の領域にどっぷりと浸かっている気分でいたが、ここは人里が隣接するエリアでもあった。里山のサウンドスケープは、奥が深く味わい深い。

 そんなめくるめく自然音とたまに人工音が織りなす協奏曲をBGMにしながら、起き抜けの若葉に目を奪われながら、緩やかに昇っては降るを繰り返す細い一本道を歩いていると、なんとなく昔ゲームで夢中になっていたRPGのフィールド場面やファンタジー映画の一部分に入り込んでいるような気分になってくる。登山者というよりは冒険家になって、目的地に向かって勇足を踏みしめる。三峰山の山行がどうにも心躍るのは、憧憬に立ち込める雰囲気が道の上に浮かんでいるということも、僕にはあるのかもしれない。



 三峰山へと続く道には岩場も瓦礫もなくて、柔らかい土となっている。山頂までずっと足元がフカフカしていて、歩いていてとても気持ちがいい。そんな土の道に目を落とすと、踏み固められた歩く道の脇には粉々になった木の葉が無数の層となって敷かれている。もちろん、道の周りだけではなく、目につく地面は総じて木の葉に覆われている。それは昨年の落ちた葉。さらにその下敷きになっている隙間から見えている葉は、そしておそらくその前の年。その下にはさらにその前の年…と表層から地中へと進むにつれて堆積していっている落ち葉の一番新しい層を、僕は見ているのだろう。

 はたと足を止め、樹上の若葉を見上げた。


 この三峰山の山道を初めて歩いたのは、もう何年も前のこと。確か、ある暑い夏の日の午後だったと記憶している。暇を持て余していたので突如として思いつき、散歩がてら登ってみようと訪れた。河内神社までの登山道は木立が木陰を用意してくれているにもかかわらず暑く、間近で鳴く蝉の声に耳を塞ぎながら歩いた。暑いしバテそうだし無理してもしょうがないよな…と、浅はかな衝動に乗っかった己の不覚に後悔を滲ませて、でもとりあえずいけるところまではいこうと稜線まで歩みを進めた。

 稜線にたどり着いて森に踏み入れ、空気に触れる。途端、これまでの道程にはなかった感触に驚いた。あれほど苦しめていた暑気はなく、ひんやりとした空気が肌を包み、賑やかな虫達の声もほどよく消音されていて、木陰の色濃さで時間帯の割に薄暗いようだった。思わずより奥へ奥へと歩いていき、途中にある沼まで進んだ。神社までの道のりではあれほど消耗していたのに、回復して再スタートしたかのように体が楽だったのをよく覚えている。頭上は空を覆い尽くすほどの枝葉、足元は登山道以外は地面を覆い尽くすほどの草花。生命の気配が満ち満ちていて、でも耳には登ってくる時に聞こえていた虫の音は薄く、静けさの方が耳に残っていた。凛とした空気が夏を忘れさせるほどに身体を冷やしてきた。

 この日は、登り出したのが遅かったため日が翳り出していたこともあり、途中で引き返した。森を出て神社を降りた途端、感じていた全ての感覚が元に戻った。

 その後、きちんと踏破しようと訪れたのは、秋も深まり冬支度が始まる少し前ぐらいの時期だった。今度は準備を万端にして臨み、朝日が登り切った頃に登り始めた。

 河内神社を通り抜け、稜線の森に入ると、夏の頃とは一変していた。帷のように覆い被さっていた深緑の葉はもうすっかり色素を薄め、赤や黄色、茶色に染め変わっていた。見上げれば光を遮っていた帷は隙間だらけになり、寂しくなった枝の向こうにうっすらした雲が流れていた。地面は落ちた葉が幾何学模様に敷き詰められていて、いやに鮮やかな装いになっていた。

 この時は山頂まで踏破した。おろしたての落ち葉たちをカサカサ踏み鳴らして、勢いが弱まった日差しをたっぷり浴びて、風がほどよく吹き抜ける軽やかな空気をすり抜けるようにスタスタと歩いていった。あれほど濃密だった生命の気配は全く感じられないほど薄まり、聞こえてくる音は落ち葉を踏んだ音やどことなく寂しげな鳥の声、そして上空の光を透かす薄雲を押し流しているゴーッという大気の低い音ぐらいであった。

 夏には見られなかった山頂の景色は想像していた絶景とはちょっと異なり、あくまで長い長い森の道の終着地点という感じだった。しかし、視界が開けている北側には谷川岳がどしっと構えた迫力ある姿で在り、森の枝やまだ落ちる前の色とりどりの葉達がちょうどフレームとなって囲んでいて、まるで谷川岳を絵画に収めたように見える景色が広がっていた。登頂の達成感を噛み締めつつ、コーヒーを淹れた。うっすらと雪化粧を施した谷川岳を眺めながら飲むコーヒーは、格別だった。

 ひと心地ついたら引き返した。夏に感じた涼しさとはまた質が違う冷気が身体を包みこみ、歩いていて汗はしっかり流すほど温まっているはずなのに、ジャケットのチョイスを間違えたことに反省しながらいそいそと降りていった。



 同じ道を歩いたのに夏の様相とはまるで別世界の秋の道。自ずと、他の季節はどうなっているんだろう、と次回の来訪を思い描いていた。

 それから季節は何度もめぐり、今回芽生えの三峰を歩いている。あの夏に栄華を誇った木の葉たちは、あの秋には枯れて散りゆき、そして今、土へと還って僕の足元に在る。見上げているこの初々しい若葉も、あと数ヶ月もすれば色濃く生い茂り、その後また数ヶ月すれば色づいてはらはらと舞い落ちて、一年経てば足元の一員となるのだろう。移ろい巡り、何事もなかったかのように次へとつながる。当たり前のことだと思いすぎてそんな風にも思ったことはなかったけど、ふと足を止めて見渡してみれば、とても尊い循環の中を歩いて渡っていたことに気がついた。

 樹上の若葉は、強まってきた日差しを背に受けて、自らが光を放つように淡い緑の光線を地面に向かって注いでいるようだった。

 稜線を抜けて、山頂へたどり着いた。秋に来た時に比べて枝につく葉の密度が薄く、谷川岳を切り取るフレームは以前に比べてよく見えて開放的な印象だった。残念ながら、この日は山頂が見えてくるあたりからみるみる暗雲が立ち込めてきて、登頂を祝して迎えてくれるはずの谷川岳は雲に飲み込まれていてよく見えなかった。

 登頂完了できた時のお楽しみ、コーヒーを淹れる。ドリッパーをバッグから取り出して、出発前に挽いてきた豆を乗せて少しぬるくなったお湯をコポコポと注ぐ。カップにポタポタと落ちる音を愛でながら立ち込める苦い香りを嗅いでいると、なぜか、ふと、昔テレビでみたある作家のインタビューが頭をよぎった。

 彼は、こう話していた。

「僕は東京が好きだ。大都市は絶えず変化する。その変化がいつもワクワクして楽しいから東京以外で暮らす気は起きない。田舎には興味がない。だって、いった時は景色を見て綺麗だな~って思っても、なんにも変わらないでしょ?2、3日したら飽きちゃうよ。そんな退屈な場所で暮らせないなぁ。」

 大体こんな感じのことを発言していた。反論したいのに、当時は的確な言葉を醸成することができず反論することができなかった。なんだか悔しくて、モヤモヤが心の棚の裏あたりにずっとくっついてとれなかったのを、急に思い出した。

 「いや、そんなことないでしょ。見えている景色は変わらないようだけど、自然てのは実は時々刻々とリニューアルされていってるんだ。その微細な移り変わりをよく見ていれば、いつもワクワクするし月日が重なっていくごとに感動が増えていく。田舎暮らしもなかなか刺激的なもんだよ」

 コーヒーを淹れながらこの日の道中であった出来事を反芻していたら、すっと反論することができた。心の中でようやく勝手にカウンターを食らわせてやり、今日の気づきに感謝した。

 そう、自然は巡る。自分もその只中にいる。何も変わっていないようで、全ては少しずつ変化する。

 そして、また季節が移ろえば更新されて巡ってくる。若葉は青葉になり、青葉は枯葉になり、葉を落とした枝にはまた春が来れば若葉が宿るのだ。

 ちょっとお湯を入れすぎて薄味になってしまったコーヒーを啜り、雲の奥におわす谷川岳を思い浮かべながら、この日の余韻を噛み締めた。

 この原稿が読まれる頃には、もう新緑の季節は終わり、夏へ向けて色彩を色濃くしている時期になっているだろう。三峰山の山頂へと続く回廊も、先日登った時とかなり様相が変わってきているはずだ。また違う景色が、異なる音が溢れているだろう。

 次はいつの季節に行けるかな。新緑の音、真夏の音、晩秋の音、記憶に残る季節の音色に耳を澄まして、変わらない一本道を巡る日を早くも思い浮かべている。