【連載エッセイ】一滴目の音 Vol.7

旅立ちを告げる」


 気がつけば、蝉の鳴き声が聞こえなくなっていた。いつの間にか日が沈む時刻が早くなっていて、日差しの中に翳りが入り込んできた。そして、暑さが終わったと思ったらいつの間にか朝晩の冷え込みが厳しくなり、気がつけば山の緑は緋々と燃え出している。天高い秋晴れが気持ちいい、と艶やかに装った山々の上を泳ぐいわし雲を見上げてほっこりしつつも、北の山にかかる分厚い雲がチラチラと気になってしまい、忍び寄る冬の気配にも気を配るようになってくる。

 そんなこんなしていたら、もう山の装いは剥がれて、雪を纏う準備をしだしている。

 季節の移り変わりとは、時の流れとは、まったく早いものだ。


 …早いものだ。

 気がつけば、もう20年以上経ったのか。いつの間にか、自分もいい大人になってしまっていたのか。お彼岸が過ぎ去って随分と経ってから、遅くなったお墓参りで祖父母の墓石を拭いている時に刻まれた年月日を見て,一瞬呼吸を止めた。


 僕の祖父母は、もう随分前に他界している。父方の祖母は小学生の頃に、祖父は中学生の頃に。母方の祖父は20歳の頃だったから多少物分かりがよくなってきたなりの話ができた思い出があるが、祖母は2、3歳の頃に亡くなったので会話をした記憶が全くない。しかし、葬儀の時に聞こえていた読経は今でも耳に残っている。木魚の丸っこい打音に乗った、地を這うように低く抑揚がない調べ。そしてそこに重ねられていた、たくさんの啜り泣く声。なんだか、とても悲しかった。悲しく感じたのは、子どもながらに何が起きたのかはもちろん正しく認識はできていなかったが、「お葬式は悲しい」ということは、心に深く刻まれてた。

 「でも、なんだか葬式って、暗くて悲しい記憶ばかりじゃないんだよな」。

 お墓に眠っているご先祖さま達の墓碑を拭き終わった雑巾をバケツに入れて洗っている時に、無遠慮に呟いてしまった。雑巾を絞ってジャバジャバと落水させると、透明だったバケツの水がみるみる黒々と濁っていった。

 初めて経験した葬儀は、悲しさを知る記憶となっている。しかし、その後経験した葬儀は、その時ほどの重々しさは感じなかったように思う。

 葬式は結構賑やかだった。

 僕の記憶に残る祖父母の葬儀は、そんな印象が強く残っている。

 取っておいた綺麗な水を墓石の頭から流し、絞った雑巾を広げて上から順に拭い始めた。

 今でこそ葬儀を執り行うとなれば、葬儀の業者に依頼して式場にて行われることになる。しかし、父方の祖父母が亡くなった90年代後半はまだ昔ながらの葬儀のやり方だったので、自宅で葬儀が営まれていた。

 自宅で葬儀を行うにはもちろん自分の親族だけでは成り立たせることができない。なので、住んでいる地区の組うち(うちの方では班と呼ばれる)の人たちの助けを借りて執り行っていた。班の中から葬儀委員長を立て、葬儀の運営、会計、さらには食事の用意まで。今では業者が全て行ってくれることを、班の人々や、場合によっては班じゃなくても生前に故人から依頼されていた人が中心になって担っていた。だから、親族だけでなく地域の人たちがスタッフとして動くため、葬儀の期間中は家の中や敷地の中を行ったり来たりしていたのである。日中の作業がひと段落して夜になると、親族一同が集まった家の中は普段ついていない部屋まで明かりが煌々とついていて、夜遅くまでなにかと賑々しく言葉が飛び交っていた。


 賑やかだった記憶が強いのは、葬儀期間の食事も大きく関係している。期間中は朝食以外は自宅で食事をせず、地区の公民館に食べにいっていた。これも班の方々が用意から後片付けまで全て行ってくれて、親族だけでなく葬儀の運営に関わってくださった班の方々みんなで食卓を囲んだ。食事のたびに総勢30人近く集まるため、自ずと賑やかにならざるを得なかったわけである。集まっている理由が理由なため、「いただきます」の挨拶の後は、カチャカチャと食器に箸が当たる音や汁物を啜る音、自分の咀嚼音ばかりが広間に飛び交っていた。最終日以外はあまり話す声が聞こえていなかったように記憶しているが、人が集まれば物音も必然的に増えるし、顔馴染みの親戚と顔だけは知っている近所の方々の、普段交わっている様子を見たことがない人たちが一堂に会している様子は、それだけでもなんだか特別な感じがして気持ちがそわそわした。

 


 「そういや、昔の葬式って、こんな感じだったなぁ」。

 気がつけば、手は進めながらもいつの間にか当時のことを思い出してしまっていた。

 時期を外した墓地には僕以外の人影はなく、風が墓地の境の先に林立する杉林から枯れた枝葉をさらってきて、カラカラと転がしている音だけが響く。

 花立をキュルキュルと回して取り外し、いつ墓前に供えられたのかわからないもうとっくに立ち枯れた花をゴミ捨て場に捨てに行く。長いこと淀み続けていた茶色く濁った水を洗い流して家から汲んできた水に入れ替えて、自宅の庭から摘んできた花を添える。

「自宅の庭に咲いたんだよ。それも、俺の家の庭の」

 昨年購入して移り住んだ家から摘んできたなんて、思ってもみないだろう。なにしろ、祖父とお別れしたのは僕がまだ中学生だった時だったんだから。

 さぞ驚いてくれるだろうな。

 なんて、心の中でふっと思って、軽く、ふぅ、と息を吐いた。



 

 「最近の葬式が賑やかじゃなくなったなって感じるのは…」

 白い玉砂利の隙間を縫うようにして飛び出している雑草をぶちぶちと抜いていると、いつのまにかまた葬儀について考え出していた。

 賑やかさを感じなくなったのは、班で葬儀を執り行うことがなくなったのに加え、付随して行われていた風習が実施されなくなったことも大きく影響しているだろう。

 例えば、僕が成人して初めて班の葬儀の準備を手伝った時、最初に行った作業は、葬儀のための飾り作りだった。山へ竹を切りに行って、その竹に飾りをつけてご不幸があった家の前に立てるという風習があったのだ。これは葬儀会場の目印のために立てたように思うが、葬儀会場の目印に立てたように思うが、由縁については詳しく聞くことができなかった。次から次へと葬儀の設営作業があったため、それどころではなかったのだ。さらに言えば、作った竹飾りを地面に打ち込んでおいた杭に結びつけて立てる作業がとてつもなく難しく、由縁について聞く頭が完全に抜け落ちてしまっていた。荒縄を使って杭と竹を結びつけるのだが、その結び方が尋常じゃない複雑さだったのである。班の古老が荒縄を手に取り、杭と竹をぐるぐると巻いて、その上に斜めに巻いて、さらには結び目を束ねて立体的にまとめ上げて…といった感じで巻き上げていった。見たこともない結び方で、何がどうなっているのか見てるだけでは全然わからない。 「お前もやってみろ」と荒縄をほどいて渡され、僕を含めた若手がかわるがわる挑戦した。教わりながら結んでみても全然うまくいかず、言われた通りにやっているのに綻んでしまって結べない。しかし、古老が結ぶと全くびくともしないほどがっちりと結ばれるのである。 「そのうちおめえらが作るようになるんだから、縛り方よく見て覚えとけよ!」 なんて、班の中心になっていた方に言われたのだが、当然覚えることができなかった。

 葬儀が終わって出棺する際に、葬列が墓地へ向かう道の上で、竹で編んだ花籠を振って歩くというのも覚えている。これを体験したのは、僕が小学生ぐらいに近所でご不幸があった時だった。花籠には色とりどりの折り紙5円玉、10円玉、50円玉が入っていて、花籠が振られるたびにチャリンチャリンと音を立てて通りにばら撒かれる。それを参列者が拾い集めるというものだった。鮮やかな色合いの飾り付けを施された花籠が、振るたびにシャンシャンと鳴ってジャラジャラと小銭同士が打ち合うとても景気の良い音が響かせて、子供心を激しく揺さぶっていた。

 他にも細かい風習がいくつもあったはずである。しかし、最近はもうどれも行われなくなってしまった。

 思い出しながら草をむしっていたら、気がつけばほとんど完了してしまっていた。草をまとめて先ほど枯れた花を捨てた場所に持っていって放り投げ、戻ってむしっていた場所を見る。無規則に点々と生えていた緑の草は綺麗さっぱりなくなり、玉砂利の白一色が少し高くなった日差しをキラキラと反射していた。


 数多くの風習は実施されなくなってしまった。

 しかし、僕の地域ではまだ残っているものもある。

 「告げ」という風習だ。

 これは僕らにとっては葬儀の際に当たり前に行うものだと思っていたのだけど、同じみなかみ町内でも残っているところとそうでないところがあると最近知った。

 班の中でご不幸があると、班の人たちが集まって葬儀の準備や段取りについて話し合う。最近では、ここに葬儀会社の人も入る。葬儀日程と場所が決まったらその告知の文書を作り、地域内の各家を回って届ける。この告知を届けて回ることを、「告げ」という。 僕も昔、役目を仰せつかったことがある。その時に体験した地域の方の様子が忘れられない。

 

 告げに回る時は、必ず2人で回る。喪服に身を包んだ僕は、同伴する班の人と一軒一軒歩いて告げに回った。

 呼び鈴を鳴らし、応答があったら玄関を開けて、

「告げです」

 開口一番にそう伝える。すると、その家の人は「えっ…」と小さな声を漏らして驚きを表情に浮かべ、それからゆっくりと玄関先に正座をする。そして、神妙な面持ちとなって告知が書いてある文書をうやうやしく受け取る。

「ああ…そうですか…」淡々と応対し、顔の色を落として文書をまじまじと見つめる人、

「…病気だったの?」なんとか驚きを飲み込んで、亡くなった顛末を聞いてくる人、

「いやぁ、〇〇さんには、何かとお世話になってねぇ…」と、呆然とした面持ちで亡くなった方との思い出を語り始める人。

 反応は家によって様々。ただ、どの家に行っても告げを聞いた時は皆、神前に立つような厳かな態度で謹んで受け取るのは共通していた。故人との関係の密度がどうであったかで反応は変わっているが、「近所の方が亡くなった」という事実を受け止める時には必ず故人への敬意を垣間見られたように感じた。

 この告げ、僕は以前あまり好きではなかった。なんせ、呼び鈴がなったら突然黒衣を纏った大人が2人入ってきて、険しい顔で「告げです」と一言言って葬儀の知らせを渡してくるのである。高校・大学時分に告げにあった時は、なにか死神が巡回しにきているように感じて、恐ろしい出来事に遭遇してしまったように思ったのだ。

 しかし自分が告げに回ってからは、この風習が残っていることをとても誇りに思っている。同じ地域に住んでいるという場のつながりで故人の死を近親者の死のように身近に捉え、粛々とした気持ちで哀悼の念を持つ人たちの姿を見られたからだ。


 告げに回りたかったのは、本来なら亡くなったその人だったんだろうな。

 一通り磨いてむしかけていた苔がなくなり、つるっと黒光するお墓を見ながら、ふと思った。

 花籠を振って歩く風習は、もうあれから目にすることはなくなった。

 葬儀があっても、葬式飾りを作ることもなくなった。

 飾りを立てる時に結んだ荒縄の結び方が複雑すぎて、

「これ、〇〇さんがいなくなったらもう誰も結び方がわかんなくなっちゃいますよね」

 なんて、あの時は冗談めいて話していたけど、その言葉は現実のものとなってしまった。

 

 昔ながらの葬儀をするとなると、そのために身内じゃなくても仕事を休まなければならない。普段滅多に行わない数多の仕事を、わざわざ時間を割いて無給でしなければならない。今は、葬儀の会社が全て担ってくれるため、班の人達は告げに回ったり葬儀場での受付の手伝いをするだけでよくなった。

 時代が流れれば、生活の様式も変わる。生活の様式が変われば、昔ながらの様式が噛み合わなくなる。そうなったら、否が応でも昔の様式は捨て去らざるを得なくなる。

 時代が変わったんだ。昨今は、昔のように地域の行事にある程度融通が効く社会の風潮ではなくなった。ただ家が近所というだけで個々の生活を一旦ストップして1円も生み出さない業務を行うなんて、非効率だ。業者にやってもらったほうが、ずっと楽だ。

 そういう思いは、自分の中にも間違いなくある。

 しかし、

 「でも、それってすごく寂しいことだよな」

 簡略を思うたびに、効率を思うたびに、胸の中の寂寞の念がジリジリとアラームを鳴らすのだ。きっと、「忘れちゃいけないよ」と。昔ながらの葬儀を体感した、おそらく最後の世代として。



 視線をお墓から空に移すと、きた時には雲ひとつなかった空に、いつの間にか筋状の雲が薄くたなびいていた。気がつけば、風も少し強く吹いてきているようだ。

 ようやく掃除に片が付いて、ご先祖さま達に挨拶を告げようと墓前に座り込んだ。

 手を合わせて目を閉じると、祖父の葬儀の日が思い出されてきた。

 

 父方の祖父はキリスト教式の告別式だったため読経はなく、代わりに讃美歌が歌われた。奏楽のために居間に持ち込まれた電子ピアノの伴奏に乗せて、親族、参列者ともに歌った。式を執り行ってくれた牧師先生や教会員たちは高らかに、参列者の方々はおそらく馴染みのない歌だったためか小さくボソボソっと、歌っていた。どの歌声もやはり、涙混じりだった。

 出棺し、火葬されて、家に戻ってきた。

 祖父の「死」を直視しなければならない時間を過ごし、到底言葉にできない深い喪失感と受け止めきれない現実を振りかけられ、中学生の僕は自分の中に渦巻く感情をどう処理すればいいのかすらわからず茫然自失の状態だった。

 夕食、そして葬儀に協力してくださった方々への「ごくろうぐるめ」(おそらく、ご苦労振る舞いのうちの地域での言い方らしい)のために、公民館へと向かった。

 夕食の献立は、とんかつだった。

 「…あ!今夜はとんかつだ。やった!」

 好物のとんかつがお膳に並んでいるのをみて、精気を取り戻したような気分になった。しかも、食事の合図が号令されるのを待っていたら、菜食主義者だった牧師先生が、「とんかつ食べられないから、よかったら食べてくれないか?」と数切れ分けてくれたのである。牧師先生が天の御使いに見えた。これまでの苦悶はいったい何だったのか、と思うぐらい、気持ちはいつもの自分に戻っていた。辛いことをはっきり辛いと認識すらできないほどガラガラに崩れていた少年の心は、とんかつによって救われたのである。

 目を閉じていて、少年時代の自分の現金さにプッと吹き出してしまった。

 目を開けると、祖父に何だか申し訳ない気持ちになり、お墓からちょっと目を逸らした。

 被りを振って、墓石に刻まれた我が家の姓に向かって姿勢を整えた。

 ごくろうぐるめは、葬儀委員長の挨拶から始まる。無事に滞りなく葬儀が執り行われたことの報告と謝辞、そして故人である祖父との思い出が披露された。淀みなく、落ち着いた語調で祖父との関係や印象に残ったエピソードが語られた。が、ところどころで言葉尻が濁り、目頭は今にも溢れ出そうだった。

 続いて、親族一同前に並んで、喪主である父からの挨拶。淡々と、しかし全体的に力ない声色だった。

 挨拶が終わり、

 「けんぱい」

 と、葬儀委員長が語気を抑えて発し、ごくろうぐるめが始まった。

 いつもの「乾杯」と違うな?と、語彙がまだまだ習得段階であった中学生は首を傾げながら盃を掲げて、とんかつを貪った。前日までの器物のおしゃべりばかりが聞こえてきた夕食から変わり、大人たちは控えめにしていたお酒を酌み交わし合い、比例して会話の熱量も上がっていった。よく顔を合わせる近所のおじさんも、盆の時期に墓参りにくる親戚も、顔だけはみたことがあるけどどこの誰なのかいまいち知らない人も、飲み物の瓶を持って代わる代わる席を入れ替わってはグラスに注ぎ合い、語らいあっている。

 なんだか賑やかだなあ。

 人の声がこんなに騒がしいのに、なんだか心底ほっとしたのをよく覚えている。

 お膳にならんだ料理を一通りつっつき終わった頃合いになると、酒瓶を持って葬儀に携わってくださった方々の席を回ってお礼に注ぎに行くことになった。大人は献杯と同時に注ぎに出ていたので、我々子供は一通り注ぎ終わった大人たちと入れ替わりで行った。もちろん自分にとっては初めての体験で、あまり話したことない近隣の人たちに面と向かってお酒を注いで話をするのは、とても緊張した。

「どうもありがとうございました」

 行った先々で、型式張った言葉をかけて、たどたどしくビールを注ぐ。と、行った先々の誰もが、

「お前のおじいさんには本当にお世話になってなぁ…」

と、涙ながらに祖父から受けた恩義を語り出した。お酒も入っているから言葉に感情の熱がこもっていて、一緒に過ごした思い出や助けてもらったエピソードなど、それぞれの関わり合いから見えた祖父の姿を赤裸々に話してきた。家族以外からはあまり聞く事のなかった、生前の祖父の逸話。僕の知っている祖父の姿を思い浮かべ、そこに新しい横顔が次々と足されていった。

 一人、また一人と注ぎ、祖父の思い出をもらっていると、いつのまにか緊張はなくなり、会話の一つ一つが祖父の思い出を拾い集める作業のように感じてきた。

 祖父は本当に多くの人から慕われ、愛されていたことを、たくさんの涙声に教えてもらったようだった。

 もうそろそろ、という時間になると、参加者がそれぞれのタイミングで厨房に行き「うどんをください」とうどんを出してもらっていた。利根沼田では、冠婚葬祭の締めにはうどんを食べるというのが一般的な習わしだ。びろびろとして太くも細くもない幅の不揃いなうどんを、煮干でとった濃いめのつゆで食べる。付け合わせは、ほうれん草、油揚げ、きんぴらとごまと決まっている。ごくろうぐるめの仕舞いには、うどんを啜る豪快な音が響いていた。

 うどんをいただいた人は、食べ終わったら葬儀委員長や喪主に一言挨拶をして帰っていった。一人、また一人と去っていき、公民館には親族と片付け担当の方だけが残り、ごくろうぐるめの始末を黙々と進めていた。

 公民館の広間が急にぽっかりと空間が空いてしまい、かちゃかちゃと食器を片付ける無機質な音だけが名残惜しく鳴っていた。

 「人がいなくなると、こんなに寂しいものなのか」

 ごくろうぐるめ、そして祖父の葬儀まで記憶が急速に逆巻いて、なんだか泣きたくなった。

 幼い頃に刻まれた感情とともに新しい感情が加わったように感じたのだ。

 薄くかかっていた雲はいつの間にか分厚くなり、日差しを遮りはじめていた。気がつけばもうお昼時。だいぶゆっくり、思い出の旅に出かけてしまっていた。墓前に近況報告する予定でやってきたのに、随分と音沙汰を滞らせてしまっていたため、いつのことから報告すればいいか全然まとまらず、結局墓前に礼をしただけで終わってしまった。

「また来るね」

 一言だけ告げて、お墓に背を向けて歩き出した。

 

 「やっぱり、葬式ってにぎやかな方が俺はいいな」

 他の家の墓地を横切っている時、思いがけず口からこぼれた。人が死ぬと悲しい。辛い。

 だからみんなでその胸の苦しみを分かち合い、思い出を伝え合い、慰め合いたい。

 葬儀を執り行うのは、そういった人としての根本的な欲求のあらわれなのだろう。

 その気持ちは、いくら時代が変わっても、文明が進化してもきっと変わることはない。

 悲しんでただ送り出すのなら、多くの人たちと気持ちも記憶もみんな共有しあって送り出す方が、痛みは薄れる。そして、そっちの方が故人も安心して旅立てるんじゃないか。そんなことを思った。

 歩きながらふと、また空を見上げた。気がつけば雲の厚さはまた少し薄くなってきたようだ。雲の向こう側に、空の青がうっすらと見える。日差しは地上には降りてきていないが、雲のその先は、光が降り注いでいるんだろう。眩しいぐらいに。

 

 

 墓地の坂を降り、車のドアに手をかけた時、お腹がグゥグゥ鳴ってしまった。

 「お昼ご飯、なににしようかな?」

頭の中は思い出よりも目先の食事に切り替わった。故人を偲ぶ厳かな気持ちも、食欲には勝てない。

 昼食を夢想しながら、車のエンジンを入れて、墓地を後にした。